未熟さと経験とミスと責任と...

「未熟さ」とは、前途洋洋たる未来への希望をこめてというよりも、目を覆うような救いようのない実情に、なんとか酌量の余地を見出して背を押すような批評の言葉であるといえる。

c0119546_22431828.jpg「未熟さ。」
柿谷のスーパーロングシュートで先制するも、立て続けの2失点でグループリーグ最終節をフランス相手に黒星で落とした新黄金世代「H-generation」。
試合後、こらえきれない涙を右腕でぬぐうキャプテン水沼の肩を抱きながら、何事かをささやきつづける柿谷の姿が印象的だった。

カナダ・ビクトリアで行われたU20日本代表のワールドカップ準々決勝チェコ戦。2点を先制するも、不運な判定による2つのPKで追いつかれ、PKによる敗戦。
フランスに敗れ、グループリーグ敗退が決まったU17日本代表も、ベストの布陣で「人とボールが動くサッカー」が今大会初めてといっていいほど機能しながら、後半かたむいた風向きを読むことができずに逆転負け。





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「経験がない。」
オーストラリア遠征を終えて帰国したトップチームからA2に落とされた7人の選手の課題を聞くと、監督の回答はいずれも「経験の無さ」であった。細かい課題は上がるものの、いきつくところ「もっと経験を積ませないと試合では使えない」というもの。

では、「経験」とはなんぞや。アイリーグでもなんでもいいから多くの試合に出ることが経験だろうか、4年間公式戦に出続けていれば、それは「経験」なのか。つまり、「経験」は単純に「場数」なのか?ということ。
オシムは経験について、以下のように語る。

「起こってしまったことを起こらないようにすることが経験だ。あるいは、もしポジティブなことが起こったならば、どうしたらそうなるかを知って先へと進む。一度や二度なら同じミスや失敗を繰り返してもよいが、三度繰り返したならば、それは実は悪い経験である。」

試合の中で、同じミスを繰り返してしまう。
病気のように、同じ課題を毎試合毎試合繰り返す選手はいるものだし、それに自分で気づいていない選手もいる。それを気づかせるのが自分の役目でもあるが、たしかにトップから落ちてきた選手をみていると、自分の持つ美しい武器と表裏を成すようなミスを何度も犯す。

起きてしまったことと同じことが起こらないようにするのが経験である。同じミスを繰り返しているうちは、「経験」を積んでいるとは言いがたい。その課題をプレッシャーのかかる試合の中で克服してこそ、「経験」を積んだといえるのだろう。

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「経験」として自らの血肉としていくミスの克服には、自覚とトレーニングが必要であることはいうまでもないが、さらには「責任」という要素がからんでくる。

「責任感」。
責任感は、サッカーにおいてはポジションが後方になればなるほど増すと考えるのが普通である。
よく、「負けたらDFのせい。勝ったらFWのおかげ」というように、GKなどは自分のプレーが最も試合の勝敗にからむ、とくに敗因にちかい場所でプレーをしているからだ。

「選手たち全員はコレクティブ(集団的)にプレーしている。しかし、コレクティブであるかのように振る舞ってるだけで、実はインディビジュアル(個人的)にプレーしている選手がいる」


こうオシムも語るように、前線には往々にして自らのエゴのためだけに生きる選手がいる。
あるチームの中でトップに君臨する選手が「美」に生き、「美」に死に、その「美」がチームの象徴であり、チームの勝敗を左右し、チームがそのために水を運ぶのであればかまわない。しかし、それ以外の選手が「美」に走りはじめたら、チームというものは機能しなくなり、勝敗に対する責任感とは程遠いプレーが拝めることになるだろう。

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個人的な話をしよう。
U17の最終メンバーから外れた弟の携帯には、毎日必ず水沼くんからメールが届く。
練習の内容、チームの雰囲気、試合の結果。
そして、水沼くん自身が泣き崩れた3試合目のフランス戦後も、メールが届いたようだ。

仲が良いからだけじゃない。
選ばれなかったメンバーに対する「責任感」を、水沼のメールは表している。

「コータくんは、決して上手い選手ではない」
弟もそう語るように、運動量と責任感だけでキャプテンとして代表を引っ張ってきた水沼。柿谷の非凡なプレーは、まさに「美」に生きるエゴイストの素晴らしいプレーである。しかし、労を惜しまず、仲間の分まで走りつづける水沼の水を運ぶ姿こそ、ああいう選手の責任感あるプレーこそ、サッカーにおいて、オレは最も美しい「美」であると思うし、その信念は揺るがない。


新聞記者と、毎日毎日朝の4時から新聞を運ぶ新聞配達人では、
どちらが偉くてどちらが美しいかというつもりはないが、
なにごとも、美の裏側には美を支える土台があるということだ。
永遠ともいえる時間を生きつづける名画の裏に修復士たちの作業があるように。
そして、それこそが、バトンを手渡すように繰り返してきたことが、名画をしのぐ「美」である。

責任のための責任は、ミスの温床となる。
どんな場面においても責任感を持ってしまっては、それは無謀なミスを生む。
だが、責任に限界をつくらない責任感があれば、ミスは生まれない。
もし、ミスが生まれたとしても、それは経験となって、血となり肉となり、糧となる。


水沼コータの責任感。
歯をくいしばっても、ぜったい泣くもんかという表情でこらえてもこらえても、流れ落ちる水沼の涙は、未熟ではあった。試合内容もめちゃくちゃ未熟だった。
でも、彼がいつかは熟す運命と未来を孕む前途洋々たる「未だ熟さぬ」男であり、「未完の大器」であることを教えてくれたし、なによりも、日の丸と自らの未来の責任を背負って戦い、潔き敗者となって涙に暮れる姿は、美しかった。





(そして、彼らがいれば、未来の横浜Fマリノスは大丈夫であること、
そしてそして、こんなときにいつものノドが痛くなる同じパターンで熱を出している自分は、未熟で、経験もなく、責任を果たせぬ大馬鹿野郎であること。

心の底から一言を、

申し訳ない。

山浦元久)
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by marc_keio | 2007-08-27 20:43 | book